個性的コレクション
2017/4/1 18:00
突然CDを買いに行きたくなって真夜中にTSUTAYAへ走った。こんなに眠くて明日も朝が早いというのに、なぜ今息を切らしているのか。夜が更ければ更けるほど増すわくわく感たるや、大変なものだった。恐れ入った。自制できない。
ツイッターを眺めることはあれど、ツイートをしようと思う瞬間が以前に比べとても減った。語数が足りず、思ったことの一部分しかフォーカスできなかったりして、なんというか上手いこと吐露できない。可愛い絵文字で終わらせてしまう。可愛い絵文字は可愛いのでそれはそれでまあよしとする。ツイッターというコンテンツは、"れをる"という存在の活動の軌跡としてはとても重宝しているのだけど、昨今の自分が吐き出したい脳の中身は、思いの外ごちゃごちゃしていて、蛇足だと感じた言葉を削っているうちになくなってしまう。今のこの感情がタイムラインに流れ出すと視覚的に浮くな、と感じて、ブログを開設してもらったことを思い出して、特にお知らせごともないのだけど、書き記しておく。3月31日、時刻は24時を回った頃。多分、これこそが本来の用途だ。
先月頭にかけてのワンマンライブで、セットリストに新曲を組んだ。ニュータイプトーキョー。ライブで初めて曲を披露するということが初の試みで、この曲に限ってはとにかく歌詞を伝えることに照準を定めて歌った。当社比。断片的にでも、拾えたでしょうか。そうだといいな。
人間の体というのは入れ物で、わたしたちは今まで生きてきた時間の中で色々なものを取捨選択し、それらによって構成されていると思っている。完全に持論だが、云わば本来の意味でオリジナルと呼べる人間は多分もう生きていない。西暦だけでももう2017年、無理もない。言葉の意味は時代背景で移ろいゆくんだと知る。
活動に公な動きがあると、様々な媒体やラジオでインタビューをして頂くのだが、オリジナリティだとか個性といった言葉がよく出るし、わたしも使う。全然そんなんじゃないよ、と思うけど、分かりやすく伝わりやすく便利だ。「わたしの体はただの入れ物であって、わたしたちの個性っていうものは本当のところ存在しないんです」なんて言い出すボーカル面倒くさすぎる。面倒くさすぎるんだけど、結構常日頃からそう思っている。
ニュータイプトーキョーはわたしの脳みその中を横行するそういう考えを基盤にできた曲で、空っぽな入れ物の人間と、都会という生き物がシンクロしているように感じ、それを題材に書き進めた。東京に住みはじめて数年が経つが、人や物で溢れる街を歩くたび何処かがらんどうだと思うのは、その密度に比例して入れ物の容量も増えているからだ。山手線、渋谷、雑踏、わたしたちは街に食われてく。
好きなものや譲れない主義主張や時代の流行をおしなべて、自分が構成されていく。それらは全部細胞である。かくいう自分もまた、東京23区というひとつの街を構成する細胞である。明日からのわたしは何を選ぶだろう。何を断捨離し、何で腹を満たすだろうか。
さよならの感覚は快感と呼ぶに相応しい。昔はそう思うことを悪いことだと思っていたし、どこか後ろめたかった。情に厚いことこそが正義であるとされていた。それでも、腐ったものや汚れたものを捨てずにとっておくと、みるみるその分がキャパオーバーしていく。入れ物の体に、新しいものが取り込まれかさを増す。溢れた灰汁をすくって捨てることはいけないことではないと思えるようになって、それを悲しむことをやめた。別れは必然であるし、常に背中合わせだ。抗えない。
ワンマン公演を終えて暫し休息をとって、制作も次へとシフトした。先日はそれの皮切りのミーティングで、今週もまたある。家に篭って黙々と言葉を書き連ねては削って、捨てて、拾い上げて、整頓して、形になる。新しいことが始まろうとしている。やりたいことが山ほどあるし、きっと当分退屈しない。"新しい"は未知だから楽しい。
脳がトリップしている。知らない次元までとびたい。